ひいいの麻雀研究 |
麻雀の歴史 ●麻雀の発生まで 最初にお断り申し上げます。麻雀の歴史に関しては、以下の情報を参考にさせて頂きました。 http://www.asamiryo.jp/ 浅見了氏 http://www.h-eba.com/heba/ 江場氏 http://www.sakae.ne.jp/index2.htm リーチ麻雀さかえ (1)葉子戯(エーツーシー) 中国には、古来より、紙・木の葉・骨(牛骨)・象牙・竹・木・銭(金属)を材質とする様々なゲームがあった。サイコロもその1つである。 中国、唐の時代(618〜907年)に、葉子戯(エーツーシー)という紙牌のカードゲームがあった。黎明期は、木の葉を使っていたようである。文銭・索子・萬貫・空文・枝花の5種40枚からなるカードを使う。これが麻雀のルーツである。 麻雀のルーツであると同様、トランプのルーツでも花札のルーツでもドミノのルーツでもある。 (2)馬弔(マーチャオ) 明(1368〜1662年)の時代になると、馬弔(マーチャオ)が流行した。1621年頃に完成したと言われる。4人で遊ぶ形態である。 牌の大きさは紙牌よりやや大きく、40枚で1セットで、スート(札の種類)は十萬貫、萬貫、索子、文銭の4種類である。それぞれ1〜9まであるが、十萬貫は二十萬貫から始まり、百萬貫、千萬貫、萬々貫までの11枚ある。萬々貫が一番価値がある。萬貫札には人の絵が描いてある。文銭で一番価値があるのは空湯(コンタン)で、次が枝花(チーホワ)である。次に一文(イーウェン)が価値があり、以下、2〜9の順である。空湯には人の絵が描いてある。だいたいは水滸伝の登場人物である。古くは馬棹脚(マーチャオチャオ)と言ったが、明の時代に脚(チャオ)を角(チャオ)とも訛った。また四門(スーメン)とも言った。これは馬が四本足であるためである。馬は足が1本欠けると走れない。そこで馬棹(マーチャオ)と言ったのである。この棹(チャオ)が弔(チャオ)となり馬弔となった。 馬弔(銭牌)は現代でも中国をはじめ東南アジアを中心に遊ばれている。 現代の中国(特に広東省、香港)で遊ばれている東莞牌(トンカンパイ)や、東南アジア一帯で広く遊ばれている二色象棋牌は、馬弔(マーチャオ)と似たゲームである。 (3)骨牌(クーパイ) 中国では紙札ゲームとは別に竹骨系のゲームがある。骨牌(クーパイ)は賽子(ダイス)の目の組み合わせでできた32枚の牌で構成されていた。骨牌の別名を搶結、打四虎、打天九ともいう。打天九の遊び方は馬弔牌とよく似ていた。 (4)江西紙牌(シャンシーチーパイ) 馬弔(マーチャオ)や骨牌(クーパイ)が融合または、これらから派生したゲームの種類は、極めて多い。西洋に渡ったカード(日本で言うトランプ)もこれらが起源である。 融合・派生過程でできた、最も麻雀に近いゲームが、江西紙牌(シャンシーチーパイ)であり、浅見了氏によって紹介されている。 牌は馬弔(マーチャオ)から出たもので構成は以下のようである。 文子 … 一文〜九文 (穴あき銭を意味し、麻雀の筒子に相当する) 吊子 … 一吊〜九吊 (紐で束ねた穴あき銭を意味し、麻雀の索子に相当する) 萬子 … 一萬〜九萬 公将 … 千萬・枝花・全無 (三元牌に相当する) 花将 … 福・禄・寿・喜・財 (5)麻雀(マージャン) 中国語で、「雀」という漢字は、主に小さい鳥一般を指す。ある種類の鳥を指す場合には、雲雀(日本語でひばり)、金糸雀(日本語でカナリア)と表現し、中国語で麻雀とは、日本語で言う雀(すずめ)のことである。 中国において、1865年頃「麻雀(マーチアン)」と言う名称のゲームが存在した。 馬吊の別名を麻将(マーチアン)とも言ったので、現代中国では麻将という名称になっている。 「マージャンという読みに雀の字を当てたのは日本人である」「馬弔(マーチャオ)が訛ってマージャンになった」「麻将が訛ってマージャンになった」という風説は、みな、嘘である。 むしろ一般に誤説とされる、「洗牌するジャラジャラという音が雀のチュンチュンと言う鳴き声に似ている」と言う説の方が、まだ信憑性がある。 麻雀の和がりの牌姿が、雀が羽を広げた姿に似ているからだという説もある。なぜ、麻雀という名称になったのかの定説はないが、少なくとも日本で付けられた名前ではない。 江西紙牌(シャンシーチーパイ)は風牌はもとより確固たる三元牌も存在していないので、まだ麻雀とは呼べない。さらに麻雀はカードゲームではなく骨牌ゲームである。骨牌が紙牌ゲームと融合したのは諸資料から中国清王朝時代(1644〜1912)の後期、1865年前後、きっかけは太平天国の乱(1851〜1864年)ではないかと考えられている。戦乱の中で兵士の娯楽の一つは博打である。兵士の出身地が中国全土に渡っているのであらゆるタイプの紙牌、骨牌が遊ばれたと思われる。しかしルールが地方毎にばらばらではうまく遊べないので、おおよその共通札・ルールが成立してくるのは必然である。これが麻雀誕生の最大の要因であると言われている。 戦乱の兵士の間で遊ばれる博打は、明日にも自分の死が訪れるかもしれないという極限状態におけるものであり、インフレになりやすい。最も簡単にインフレ化できるのが花牌である。各地方の様々な花牌が融合した。当初、東南西北は、花牌の一種であった。 東王・南王・西王・北王の花牌は風位牌として姿を変えて清麻雀(シンマージャン)においても重要な地位を占めた。これは門将(メンチャン)と方位・風位の思想が一致したためであろう。東王・南王などの花牌はすべて門将、すなわちある座位の者だけに有効であった。この特定の座位の者だけに有効という花牌の性質が、それまで成り行きで車座になっていた人々に「東王が有効なゲーム者=東家(親)」の発想となり、今日の東南西北という座位概念が成立し、風位牌・方位牌として麻雀セットの中に存在するようになった。 清稗類鈔・又麻雀(サーマーチャオ)に『麻雀は江蘇省の寧波(ニンポー)に始まり順次普及した』とある。なお、太平天国軍の首都が江蘇省の南京であったことも偶然の符合とは思われない。同書に『麻雀は葉子の一種で、又麻雀ともいう。136枚で万子、筒子、索子、東南西北、龍鳳白(または中発白)の種類がある』と書かれており、これはまさしく麻雀の特徴を捉えている。麻雀以前にも萬子・筒子・索子・三元牌のような牌種は他のゲームに存在していたし、一種四枚の同種牌を持つゲームも存在した。しかしこれらが一体となっているものは麻雀以外にはない。風牌は麻雀において生まれたという点でもっとも重要である。 麻雀のルールを統一化し、完成させ、広めたのは、江蘇省寧波の陳魚門(ちんぎょもん=チェンユイメン)と言う人物であるというのが定説である。増えすぎた花牌の粛正を行った。陳魚門は花牌を使わない136枚の麻雀を「素麻雀」と称した。日本で言う清麻雀(シンマージャン)である。賊の出身地に近い逝江省産まれの彼は、官吏登用試験(科挙)をトップで通過したにもかかわらず何の役職も与えられなかった。このことが、麻雀のルールの完成に全身全霊をかけることにつながったと言う。 清王朝末期の混乱した中、故郷に逃げ帰った兵士や、官人・官女たちによって、各地方へと伝播した。同時に、東南アジア・ヨーロッパ・アメリカなど諸外国にも広がって行った。 ●麻雀の外国への伝播 アメリカに麻雀が伝わったのは19世紀、上海・蘇州に滞在していたスタンダード石油の社員たちが自国へ持ち込んだと言われる。禁酒法時代が最盛期で、中国人移民の手によってさらに全米に広がった。また、1920年、アメリカ人のジョセフ・P・バブコック(Joseph P. Babcock)が、世界で初めて麻雀入門書を著した。 東インド会社のインド・ヨーロッパ航路によってイギリスを通してヨーロッパに広がり、1920年代、上流階級の社交ゲームとして広く遊ばれたと言う。アガサ・クリスティーの「アクロイド殺人事件」(1926年)の麻雀の夕(ゆうべ)という章に、麻雀を遊んでいて天和が出るシーンが登場するのは有名である。 日本において中国の麻雀とは異なるゲームにルール変遷したのと同様、各国への伝播によって、ルールは様々に変化した。 アメリカでは、配牌後、不要牌を3牌ずつ対戦相手と3回、最大で9牌の牌を交換するルールがある。これをチャールストンと言う。 ●日本への伝播 日本へどのように麻雀が伝わったのかについては、諸説ある。明治維新前に開港した横浜・神戸・長崎などから伝わったというもの、20世紀になった頃、日清戦争の従軍者が持ち帰ったというもの、中国からやってきた亡命者から伝わった、などである。 最も流布されている説は、明治42年(1909年)、英語教師の名川彦作氏が帰国したときに牌とルールを日本に持ち込んだというものである。 名川彦作氏は東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業した英語教師であり、英語を教えるため中国に赴任していた。そして、四川省で麻雀を覚え、明治42年(1909年)帰国時に麻雀牌とルールを持ち帰った。 同年、作家の夏目漱石氏が朝日新聞に麻雀らしきゲームを中国で見たと書いている。 当時の麻雀牌はたいてい牛骨で作られていた。象牙など他の動物の骨で作られた牌もあったが、まだプラスチック製はないので、麻雀牌1セットは現在価値にして最低でも数十万円という高価なものであった。 帰国した名川彦作氏は樺太(カラフト)の大泊中学と言う女学校に赴任した。当時、女学高に進む女性は数%に過ぎず、金持ちのエリートであった。名川彦作氏は同僚や女生徒に麻雀を教えた(授業ではないであろうが)。当時の女生徒の嫁入り道具に麻雀牌を持たせた話などが残っているので、名川彦作氏が地元に麻雀を広めたことは事実であろう。 名川彦作氏が持ち帰った本邦初と言われる麻雀牌は現在千葉県にある麻雀博物館の日本コーナーに展示されている。 ●日本に麻雀を紹介した最初の記 日本に麻雀を紹介した最初の記として有名なのが夏目漱石の「満韓ところどころ」である。これは夏目漱石が支那(現在の中国)を歴訪した際の紀行文である。明治42年(1909年)11月19日付け東京朝日新聞に掲載された。 ●日本での麻雀の黎明期 大正時代になると大陸で麻雀を覚えた人々が日本で麻雀を普及するようになった。 大正6年(1917年)、日本語による初の麻雀の文献(肖閑生著「麻雀詳解」)が刊行された。また同時に井上紅梅(本名:井上進。貿易商)が大正7年から大正10年にわたり、雑誌「支那風俗」を刊行。文中で麻雀のルールを詳しく紹介した。 大正7年(1918年)、麻生雀仙という人(本名:賀来敏夫。日本麻雀草創期の先人)が東京赤坂で、少数愛好家のサロン的な麻雀クラブを開設した。 このような時代、まず麻雀に飛びついたのは菊池寛、久米正雄、里見淳などの文人、そして上流階級の人々であった。 大正12年(1923年)の関東大震災の復興と同時に、麻雀は洪水のように日本に入り始めた。そのきっかけを作ったのは、北京に駐在していたアメリカ公使のマクレー夫人で、彼女が北京で主催した麻雀大会の震災義援金が東京に送られてきたことの影響が大きいとされている。当時の中国では元師府会議、督軍会議が兼麻雀会議と言われるほどで、麻雀を知らない日本人は社交はおろか商売すらできない時代で、そうした人達が震災以後、日本へ帰り麻雀ブームにさらに火をつけた。 ●林茂光とプランタン時代 大正12年(1923年)、新宿区牛込神楽坂で営業したカフェ「プランタン」は店主(松山省三)が画家であり、妻の松井潤子も女優ということで、多くの画家・俳優・文人・墨客が出入りしていた。この店へ洋行帰りの市川猿之助と平岡権八郎が上海で買った麻雀牌を持ち込んだ。後に牌聖と謳われる林茂光(りんもこう、本名:鈴木郭郎、雑貨貿易商)らが集い、麻雀を大いに楽しんだ。これを世にプランタン時代と称する。このとき指導を受けたメンバが後に日本麻雀界の指導者となった。 プランタン時代の初期は詳細な麻雀ルールを誰も知らなかった。日本郵船がキャビンに備え付けた10頁たらずの英文のパンフレットを唯一の手がかりとして遊んでいたので、下家の捨て牌を上家がチーするとか、ポンよりチーが優先するとか、二人当たりの優先順位もデタラメであった。これを正して正規の麻雀ルールを教えたのが大陸で麻雀を覚え本場仕込みの腕を持っていた林茂光である。林がプランタンに出入りするようになると、はるばる鎌倉から菊池寛、久米正雄、田中純などの有名作家がしばしば訪れるようになった。林茂光が「親は最後に、こういう具合に、チョン、チョンと、一対とばして取ってくるのです」と説明して以来、チョンチョンは日本語として定着した。本来は跳板(チャオパン)というのが中国での名称である。 この頃の麻雀のルールは「アルシーアル麻雀」と呼ばれるもので、現在では知っている人は少ない。日本麻雀連盟では今でもこのルールで麻雀が打たれている。 大正13年(1924年)、東京四谷に東京麻雀会を作り、無報酬で華族の家に出向いて家庭麻雀の出張教授を行うなどの普及活動をした空閑緑(くがみどり、本名:空閑知鵞治。日本麻雀連盟の創設者)らの努力もあった。 書籍関係では、大正13年6月に北野利助が「麻雀の遊び方」(快声堂)を著し、同年7月には麻雀牌輸入の宣伝用に林茂光が「支那骨牌・麻雀」を著した。これはその後の麻雀ブームにも乗って10万部を越すベストセラーとなったという。 この時代に麻雀に熱心な外国人も麻雀を普及している。シー・デホーヤ女子が雑誌「婦人画報」に「麻雀牌の遊び方」を載せ、同時に女史の自宅で日本の娘たちに麻雀をコーチする姿の写真が大正13年1月号のグラビアを飾っている。また同年に「サンデー毎日」が募集した社交的室内遊戯に麻雀が当選し、同誌上にルールが紹介されている。さらに大正15年1月には空閑緑が報知新聞の趣味欄に「麻雀の話」を数回連載している。 ●空閑緑と日本麻雀聯盟 大正13年(1924年)の夏、空閑緑は四谷で東京麻雀会を旗揚げした。2年後の昭和2年(1927年)10月には「麻雀春秋」を創刊、昭和3年には銀座に移転して東京麻雀倶楽部を設立、昭和4年にはこれを日本麻雀聯盟と改称し、初代総裁には文芸春秋社社長でもあった菊池寛が選任されたが、実体は私財を投げ打って運営に尽力した空閑中央委員長のワンマン体勢であったという。 ●平山三郎と日本初の雀荘 日本で初めての「雀荘」は、平山三郎という人によって作られた。平山氏は大正3年(1904年)、第一次大戦の青島攻略で腕を負傷し、療養中に中国人街をぶらついていた時に初めて麻雀と出会い、その面白さに取り憑かれた。帰国の際には象牙の牌2組を買って帰った。 その後、関東大震災で焼け出され、呆然自失の中、ふと青島での生活を思い出し「こんな時こそ明るい娯楽が救いになる」と考え、焼け跡に「麻雀教示所」の看板を掲げた。開店当時は「アサスズメって何だい」等と聞く客もいて、ルールを一から指導するまさに「教示所」だった。その後、大正13年(1924年)に、東京、芝に「南々倶楽部」をオープン、これが日本初の麻雀荘であった。続いて数寄屋橋や赤坂に麻雀荘を開店し、多くの人に親しまれた。常連客には菊地寛などの文化人も大勢いた。麻雀荘の数は、昭和4年(1929年)には1521軒、翌5年には1712軒を数えるほどになった。 各地に広がる雀荘の中、名古屋にできた店では、トップの人にゴールデンバットという煙草を景品として出すようになった。これが大阪、神戸、東京へと広がっていき、そのうち1ケースから2ケース、3ケースへとエスカレートし始め、警察は麻雀を賭博制の強いゲームとして目を光らせるようになった。 ●第一次黄金時代 こうして麻雀は第一次のブームを迎え、多くの麻雀団体が結成されたがルールは各団体まちまちであった。そこで昭和3年(1928年)3月25日、東京麻雀会で日本初のルール協定委員会が開かれ、これを受けて翌昭和4年4月11日、丸の内の大阪ピル内のグリル「レインボウ」で各団体の代表が集合しルール統一会議が開かれた。そして符底20符、門前清加符10符、満貫500点など、今日のルール基本が決定された。これはレインボウ会議と称され、日本麻雀史の一頁を飾るエポックメーキングな会議であった。 昭和4年(1929年)、菊地寛を初代総裁とした麻雀愛好家の団体「日本麻雀聯盟」が結成され、第1回全国麻雀選手権大会が開催された。 翌昭和5年は日本の麻雀の「第一次黄金時代」といわれ大都市に次々と麻雀荘ができた。大阪では200人もの参加者を集めた麻雀大会が開催された。 昭和5年に文芸春秋社が売り出した麻雀牌は廉価版で18円、高級品で43円であった。当時、白米10キロが2円くらいなので、昭和になっても、麻雀牌は高価なものであった。 昭和6年(1931年)3月21日に、国民新聞社の後援により日本麻雀聯盟主催第一回全国麻雀選手権大会が開催された。参加者が500名を上回って1日だけでは処理できず、10日後の31日の両日に分けて行わざるを得なかったほどの盛況であったという。 ●太平洋戦争による衰退 昭和7年(1932年)、日本麻雀聯盟は実業麻雀聯盟(代表:杉浦末郎)、本郷麻雀会(代表:高橋緑鳳)、昭和麻雀会(代表:前田清)、日本雀院(代表:榛原茂樹)など、各地の麻雀団体と合併し、大日本麻雀聯盟となった。総裁は久米正雄、空閑は中央委員長および機関誌「麻雀春秋」の編集長として在籍したがやがて運営上の問題から脱退し、新たに西銀座で日本麻雀聯盟を設立するなどの経緯があった。空閑はその後麻雀の普及に伴い、トップ賞のあり方などで警察より賭博性が指摘されると、中心となって東京麻雀粛正同盟を設立、麻雀の健全な発展に寄与した。 しかし麻雀はもともと博打として遊ばれたゲームであり、日本に輸入されたあとも人々は金品を賭け、雀荘もトップ賞として高額な景品を提供した。このため昭和8年頃から警察による取り締まりが厳しくなり、さらに戦争の広がりとともに軍部の圧力もあって麻雀荘は漸減していった。 「南山荘」の平山氏はそんな中、当時の荒木貞夫陸相に「野球やテニスと同じ。国民にも若干の娯楽は必要です」と大臣室で直訴し、営業の了承を得た。その後、妻と子供たちを郷里へ疎開させ、自分は単身東京に残り、戦争中も店を営業し続けた。戦後も組合の会長としてGHQと交渉、営業存続を勝ちとるなど、まさに日本初の麻雀店の生みの親として活躍した。 一方、シベリアで抑留された兵士たちのなかには、収容所の中で麻雀牌を手作りした人達もいた。松の木片を切り、石で磨いた上、ペチカで焼いた針金で字や印を彫った。重労働を要求され、体力のない人は次々と死んでいき、望郷の念が募る中、消灯前の一時間足らずの麻雀が唯一の慰めだったと言う。 ●戦後復興 戦後の復興が進むとともに、戦争中に衰退していた麻雀は、立直・ドラという新ルールとともに急速に復活した。この立直のルールは関東軍の復員兵からもたらされたと言われる。麻雀はようやく市民権を得て、気がねなく楽しむことができるようになった。 昭和21年(1946年)2月には東京、浅草で麻雀荘の営業が許可され、以後雀荘の開業が相次いだ。昭和22年には日本麻雀連盟も再建されたが、戦前からのアルシーアルルールは主流とはならず、立直・ドラを取り入れた新ルールが大いに普及した。 ●天野大三と報知ルール 昭和22年(1947年)、日本麻雀連盟は、戦時中に解散していたにもかかわらず、このころ大衆的に立直が広まっている状況に危機感を持ち、わざわざ立直を潰すため(麻雀の歴史と伝統を守るため)に再結成された。 昭和23年(1948年)、日本麻雀連盟の重鎮、古谷徳太郎氏は、立直に反対する理由を麻雀タイムス紙上で「(立直をかけると)自摸ってきた牌をいやおうなしに打ち出さなければならないことは、麻雀における技の要素をあまりにも少なくし、麻雀を遊戯史上の『めくり札』の段階にまで後退せしめるものだと判定したからである」と書いている。 立直推進派だった天野大三氏は、立直が導入されると麻雀が博打的になるという疑いを持たれ、警視庁から呼び出しを受けた。この時、天野氏が断固として、立直を採用した方が戦術的に高度となり、むしろ麻雀は競技的になると主張しなかったなら、現在、立直は存在しなかったかもしれない。 昭和27年(1952年)、報知新聞に天野大三が日本初の立直ルール「報知ルール」を発表した。天野は昭和30年代に立直麻雀団体「日本牌棋院」を設立し、以後その普及に多大な貢献をした。昭和40年代になると村石利夫により日本麻雀道連盟が設立され、立直・ドラは日本麻雀の特徴の一つとなった。 現在の競技麻雀のルールが『新報知ルール』と呼ばれるのを思い返せば分かるように、この報知ルールが、立直・ドラ・場ゾロなど、現在の日本の麻雀のルールの原点となっている。 この時、天野大三は、立直だけでなく報知(ホーチ)という役も発表していた。これは特殊な立直で、門前で辺張・嵌張・単騎待ちの時に、「報知」と宣言し、報知料3000点を場に供託すれば2飜になるというものであった。報知新聞で発表されたから報知とネーミングしているいわゆる駄洒落である。立直と違い、報知は定着はせず、ローカル役として今に残る。 立直は定着し、後には一発や裏ドラまで登場して、門前へのこだわりは強まった。 昭和33年(1958年)、フリー麻雀は新宿の「東南荘」という雀荘から始まった。このフリー方式は当時大変な人気を呼び、店の前に長蛇の列ができて2、3時間待たないと店内に入れないほどの盛況ぶりだった。これを機に他の雀荘や新たにオープンする店もこの「フリーの立直麻雀」のシステムを導入していった。これで麻雀は、ますますメンバーを気にすることなく、いつでも気軽に楽しめるレジャーとして人気を博していった。 ●なしなしとカンサキ 昭和30年代、立直の影響も大きく、門前派が台頭した。つまり、副露してのみ手で和がると言う鳴き派を弾圧した時代である。この時に、なしなしルール、カンサキルールが生まれた。 なお、この時代に食い平和がなくなり、さらに、「食い下がり」と言う言葉も生まれた。本来、三色同順は1飜であり門前三色同順は門前ご褒美で2飜だったのであるが、これが「三色同順は2飜。食い下がって1飜」と言われるようになった。 なしなしとは、食い断なし・後付けなしのことであるが、この後付けなしを、役の確定性にまで言及したものがカンサキ(完先=完全先付け)である。 ●第二次黄金時代 その後、高度成長期に入っても麻雀黄金時代は続いた。日本中の学生もサラリーマンも最もよく麻雀をした時代である。サラリーマン社会では「麻雀は得意先の接待にはかかせないもの」「新入社員がまず覚える社交術」などと言われ、雀荘で上司が必死に社員に指導する姿が見られた。 昭和44年(1969年)から週刊大衆に阿佐田哲也(色川武大)の『麻雀放浪記』が連載され大好評を博した。 昭和47年(1972年)には麻雀専門誌の月刊「近代麻雀」が竹書房から創刊された。 昭和50年(1975年)頃、日本テレビの深夜の人気番組、大橋巨泉司会の『11PM(イレブンピーエム)』がイレブン麻雀のコーナーで、麻雀の対局やイカサマ技などを放送した。 阿佐田哲也・小島武夫・古川凱章などが対局し、麻雀プロの存在を世に知らしめた。小島武夫は燕返しの華麗な技を披露した。素人も登場し、対局者に聞こえないところで大橋巨泉が「馬鹿野郎、それ切っちゃダメだよ」と言っていたのを私は記憶している(当時中学生)。 この頃から昭和60年(1985年)頃までが第二次の麻雀全盛時代である。このブームは戦前のような爆発的なものではなかったが、その後も麻雀は愛好され、現在では漫画やゲーム、インターネットなど新しいメディアの力もあり、麻雀は大衆ゲームとして定着し広く親しまれている。 麻雀牌の起源と歴史 ●数牌 数牌には、種類(スート)と数と同種牌数(N枚使い)がある。 現在の麻雀の数牌の種類(スート)は、萬子・筒子・索子の3種類である。 現在の麻雀の数牌の数は、1〜9 である。 現在の麻雀の数牌の同種牌数は4(4枚使い)である。 現在のカード(トランプ)は、種類(スート)は4種類(スペード・ハート・ダイヤ・クラブ)、数は1〜13、同種牌数は1である。 中国の麻雀のルーツとなるゲームにおいて、これらは実に多くの変遷を遂げてきた。種類(スート)は4種類だったり、数は1〜12だったり、同種牌数は1だったり、である。 萬子・筒子・索子のことを、色と言う。英語で言うスート(suit)である。 色という言葉は、色絞り(特定の種類の牌を捨てないこと)などに使う。また、色を限定した役である清一色や混一色のことを、色を付けることから、染めと言う。 オンラインの麻雀の理牌や、牌譜などでは、萬子・筒子・索子の順番に表示・表記される。 しかし、この順序は、本来の意味から考えると誤っている。数牌は、すべてお金を表してる。萬子は紙幣、筒子は1枚の貨幣、そして、索子は貨幣の束である。 穴の開いた貨幣に紐を通して束にしたもの、これが索子なのである。決して竹ではない。 よって、意味としては、萬子・索子・筒子の順番に並ぶのが正しいのであるが、慣例に従って、ここでは、萬子・筒子・索子の順番で示す。 ●四風牌 四風牌、東南西北は4方位を表すものである。 この順番、実際の方位とは異なっている。
浅見了氏は「中国では、方位は一般に東南西北と呼称される。これは中国では方位にも位階があるからである。東は太陽の昇る方角で第一位、南は東の次に暖かい方角で第二位、西は太陽の沈む方角で第三位、北は一番寒い方角なので第四位となる。そこで風位は東北西南でも西北東南でもなく、東南西北と呼称される。そして麻雀の親順もその風位順に従い、東南西北で移動するようになった。また古代中国では人が左方向に移動するのは左遷として格下げを意味した。そこで親の移動には左遷を嫌い、右方向に移動したと思われる。プレーヤーは車座になっているから、親が右方向に移動すれば結果的に左回りとなる。この左回りに親が移動する状況でゲームしているところへ風牌が誕生した。そこでそれまでの習慣どおり東南西北を左回りに当てはめた。すると麻雀の方位は、結果的に現実と逆回りになってしまった」と推論している。 ●三元牌 三元牌、白發中は何を表すものなのであろうか? いくつかの説があり、真偽のほどは定かではない。 [説1] 中国の科挙における各段階のトップ合格者、解元・会元・状元から来ているという説。麻雀と遠い親戚にあたる中国ゲーム「科挙骨牌」に、解元・会元・状元という牌種があるそうである。(浅見了氏の記述より) [説2] 中国の社会風習である上元・中元・下元の三元から来ているという説。このうち、「中元」は、その季節にお世話になった人に贈り物をするという習慣となって今でも日本で行われている。(浅見了氏の記述より) [説3] 白は的(まと)、發は矢、中は当たる、ことを表し、「矢を発して、的(まと=白)に中(あた)る」と言う説。 [説4] 宮廷の女官がやっていたことから由来し、白は白粉(おしろい)、發は眉墨、中は口紅を表す。 [説5] 三元牌には、「白鳳龍」や「天地人」など多数があり、この「白鳳龍」が変化して「白發中」になったと言う説。1912年に中華民国が成立した時に、清王朝のシンボルである「龍」の使用を中止して、中華民国の「中」が使われるようになったと言うもの。 ●一索 麻雀のルーツである中国のカード、馬弔(マーチャオ)の古いタイプのものを見ると、索子は穴あき銭の真ん中に紐を通して束ねた図柄であった。古いタイプの馬弔では、一索も穴あき銭一束の図柄である。 しかしすべての数牌の図柄はやがてデザイン化され、索子は、中支地方(上海近辺)では鳥、北支(北京地方)では魚がデザイン化された。鳥の場合は現在の索子の1本1本の上部に鳥の頭をくっつけ、下部には尾羽根をくっつけたデザインであった。 北支の魚デザインの場合は、基本的に鳥デザインと同様のパターンで、索子1本1本の上部に魚の頭をくっつけ、下部には尾ヒレをくっつけたデザインであった。 北支で魚、中支で鳥がデザインテーマとされたのは、もともと北支では何かと魚がテーマに選ばれる、中支では鳥がテーマに選ばれるという土壌があったからである。清(シン)時代の出来事を集めた清稗類集という書物には、「呉(上海地方)の人は、なぜか鳥のデザインを好む」という記述もある。 1850年、太平天国の乱がおき、15年間続いた。この内乱の最中、中支地方で様々な中国カードや骨牌(クーパイ)が融合し、現在の麻雀が誕生した。中支地方で誕生したので、索子のデザインは、当時、中支地方で採用されていた鳥デザインが踏襲された。しかし麻雀牌はカードの1/3ほどの大きさだったので、カードのデザインをそのまま描くには小さすぎ、鳥の頭としっぽがカットされ、胴体部分のみのデザインとなった。しかし一索は索子が1つなので、カットされず、鳥デザインがそのまま残った。 中国語で、「雀」という漢字は、主に小さい鳥一般を指す。ある種類の鳥を指す場合には、雲雀(日本語でひばり)、金糸雀(日本語でカナリア)と表現し、中国語で麻雀とは、日本語で言う雀(すずめ)のことである。 よく、一索のことを「これは雀じゃないよ、鳳凰だ」あるいは「孔雀だ」などとしたり顔で言っている人がいるが、大きな間違いである。 すずめでは迫力がない、鳳凰の方がカッコイイという期待もあろうが、中支地方で言うところの小鳥、と言うのが正解である。 麻雀のルールの変遷 ●符とサイド清算 当初、中国式ルールで遊ばれていた麻雀は大正から昭和にかけて普及するにつれ、次第に日本式ルールへと変化していった。 符底(副底)とは得点計算の基礎となる基本符である。中国古典麻雀では一翻しばりというルールは無いので平和で和がった場合、基礎符が無いと得点がゼロになる。そこで和がり賃としての符底が存在した。 その頃の中国では10・20・40・60符底のルールがあったが、全体的に20符底が主流であり、日本に伝わって主流となったのも20符であった。この基礎点を中国本来の語で表すと「20符底(アルシーフーテー)」で、アルシーアル麻雀と呼ばれるようになった。 サイド精算とは誰かが和がった時、和がらなかった者同士が、互いの手の状況をもとに点数精算をするものである。麻雀が伝来した当初はサイド精算も含めてルールはすべて中国式であったが、サイドは計算が面倒なこともあって次第に変化し、昭和6年頃には消滅した。 ●放銃者払い 中国式ルールでは摸和でも・栄和でも3人払いであった。昭和5年頃になると栄和は放銃者払いというルールが急速に普及していった。「自摸られるならともかく、他人が放銃したのに点棒を払うのはおかしい」と言うバランス感覚からであろう。また、栄和でも3人払いと言うルールだとコンビ打ちによるイカサマが容易であるという不正排除の目的もあったかもしれない。 この放銃者払いルールはサイド精算の消滅とともに日本の麻雀の技法に極めて大きな変革をもたらした。放銃による失点はすべて自己責任となり、それが危険牌/手筋の検討を必要として、競技者の技量を高く問うゲームへと変貌したのである。 ●立直 「立直は日本で生まれた」と信じている人は多いが、少し違うようである。 また「立直はアメリカで生まれた役で、reachから来ている」と信じている人もいるが、これは全くのデタラメである。 そもそも、中国麻雀には満州の地方役として、第一打牌による聴牌宣言(日本で言うダブルリーチ)が立直として存在した。しかし、ゲーム途中の聴牌宣言のルールはなかった。これを、戦時中、満州に渡った日本人が、「途中立直もありにしよう」と言うことで広まったのではないかと類推される。つまり、本来の立直と言う役を対象条件を変えて広めたのが日本の立直なのである。 この立直のルールは当初は主流ではなかったが戦後になって爆発的に広まった。この立直ルールを体系化し普及に尽力したのは先に述べたように天野大三であり、立直宣言牌を横向きに捨てるというのも氏の考案によると言われている。 ●振聴(ふりてん) 日本麻雀が中国麻雀と大きく異なるもう1つの点は振聴ルールである。中国式では互いの捨て牌はその場で確認され、チー・ポン・ロンがなければ卓の中に放置され、浮屍牌となる。浮屍牌は誰にも帰属しないので、自分が捨てた牌でも出れば栄和できることになる。 日本でも当初は中国式であったが、やがて栄和放銃者払いルールが普及すると、いわゆる振聴和がりは排斥されるようになった。本人が捨てた牌で栄和されると放銃者は釈然としない。そこで放銃一人払いに少し遅れて振聴では和がれないというルールが登場した。こうなると、それまでのように各人が卓の上にばらばらに牌を捨てるわけにはいかず、各自の手牌の前に順番に捨て牌するようになった。 複雑な麻雀用語 麻雀はルールが複雑であり、初心者には難しいし、かなりのベテランや上級者でも明確にルールを解説できない人もいる。 ルールの複雑さは、ローカルルールが多いことにも依存するが、用語が明確でないことも大きな要因である。複数の意味を持つ用語を取り上げる。 ●荘[ちゃん]と局[きょく] 「もう1局だけやろう」と言う人がいる。麻雀では1回の対戦(試合)の区切りを指す言葉として「局」を用いる人は多い。この「もう1局だけやろう」の局は、半荘か東風戦のことであり、正確には「荘」であって「局」ではない。よって、荘と言うように留意したい。 局には、さらに厄介なことに2つの意味がある。東風戦または半荘戦の東場においては、東1局〜東4局までの4つの局がある。しかし、その中で親の連荘があると、本場数が増えて、東2局1本場などになる。 東2局0本場も、東2局1本場も、局である。つまりこの東場には5つの局などがあり、不定である。
●自摸[つも] 自摸には2つの意味がある。摸打[もうたあ]の自摸、つまり、山から牌を取ってくることを自摸と言うし、自摸和がりすることも自摸と言う。 後者は、明示的に自摸和[つもほう]と言うべきである。これと並んでロンも明示的に栄和[ろんほう]と言うべきである。 ●メン 「メンタンピン」と言う時のメンは、通常立直のことであるが、門前清自摸和のことをメンという場合もある。 ●海底[はいてい]と河底[ほうてい] 王牌前の最後の自摸牌を海底牌と言い、最後に捨てる牌を河底牌と言う。 海底牌を自摸る人と、河底牌を捨てる人は必ずしも同じ人ではない。副露があった場合や、暗槓があった場合などには別な人になる。 しかし、この海底と河底を混同している人がいて、「海底ロン」などと発したりする。海底牌で栄和はあり得ず、海底牌では海底摸月しかないし、河底牌では河底撈魚しかない。河底撈魚を「河底ロン」と発することには特に問題を感じない。 ●三色 三色には、三色同順と三色同刻の2つの意味があり、単に三色と言った場合には、三色同順を指すことが多い。しかし、2つの意味がある以上、明確に「三色同順」と言う方がよい。 ●一鳴き[いちなき] 特に役牌に用いられることが多いが、対子持ちから1牌めの捨て牌をポンすること。 もう1つの意味は、初めに副露した副露面子のこと。 二鳴きでも同様に2つの意味を持つ。 1牌目の中を鳴かずに見送って、2牌目の中をポンした。中をポンした後に、1牌めの東を鳴いた。 『中を二鳴きで一鳴きし、東を一鳴きで二鳴きした』となってしまう。 ●先付けと後付け 後付けは「後から役を付ける」という意味で、一義に使われる。後付けあり/なしなど。 しかし、先付けは、2つの相反する意味を持つので、この言葉は使わない方がよい。 (1)後付けと同義で、役未確定なのに先に手を付けてしまうこと。 (2)後付けの対義で、先に役牌をポンするなどして役を先に確定すること。後付けなしルールのことを先付けルールと言う。 麻雀関連の人物 ●阿佐田哲也(色川武大) 1929年東京出身。 雀聖と呼ばれたプロ雀士で作家。 本名の色川武大で、第79回直木賞他、中央公論新人賞、泉鏡花賞、川端康成賞、読売文学賞などを受賞。 『麻雀放浪記』など数々の名作を遺し、一時期は小島武夫・古川凱章らと「麻雀新撰組」を結成。麻雀ブーム形成に大きく貢献もした。映画への出演経験もある。 難病、ナルコレプシー(眠り病)にかかり、麻雀対戦中に意識が飛ぶこともあったそうである。 1989年逝去。 ●小島武夫 福岡県出身。 “ミスター麻雀”と呼ばれるプロ雀士。一介の麻雀荘の従業員からスタート、20歳で麻雀を覚える。故郷の博多を出奔、さまざまな人間と出会いながら東京で名を上げた。 元祖麻雀タレント。第2回最強位、第3・4期最高位。 昭和50年(1975年)頃、日本テレビの深夜人気番組「11PM」に麻雀のコーチとして登場し、人気を博した。 特にテレビで初の燕返しを披露した時には、この放送を見ていた人は戦慄したという。 配牌から手役を構想せよという手役中心型麻雀の提唱者であり、魅せる麻雀を信条とする。 麻雀指南本など書籍の他、ビデオなども出している。監修も多い。 ●古川凱章 神奈川県出身。 麻雀の偶然性をなるべく排除して、 実力差を明確にしようと、競技麻雀を主張。 1974年に101競技連盟を作り、独自の競技麻雀ルール、点数計算方式を策定した。 一発・裏ドラ・槓ドラ・海底摸月など、偶然性に起因する役や飜を全て廃して、実力通りの勝敗が決する麻雀ルールである。 麻雀を囲碁や将棋と同等の社会的認知が受けられるようなゲームにしたいという意図である。 ●灘麻太郎 北海道出身。第1期最高位、第3・4・5期雀魔王位、第10・11・12・13期王位。 日本プロ麻雀連盟会長。 速攻を信条とし、「かみそり灘」と言う異名を持つ実力派プロ雀士。 ●井出洋介 東京都出身、東京大学社会学部出身のプロ雀士。第16・17・18・20期名人位。 東大出身ということで注目され、雑誌やテレビなどで活躍し圧倒的な知名度を誇る。 ●桜井章一 東京都出身。トップレベルの代打ちで20年間無敗の記録を持つと言う。 雀鬼会を主催。雀鬼会会長。 「第一打での字牌切り禁止」「ドラの早切りは和了放棄」「筋引っかけ立直の禁止」「明槓禁止」「裸単騎禁止」「打牌は2秒以内」等、ローカルルールとも言えるような独特の流儀を雀鬼流として提唱した。 現在はもっぱら指導者として活動している。 ●安藤満 千葉県出身のプロ雀士。17歳で麻雀を覚える。第6期十段位、第5・6期プロリーグ、第19期名人位・第16期王位、他、鳳凰位などタイトル多数。 鳴きを利用して運を操作しようとする考え方である「亜空間殺法」という独自の変幻自在なオカルト戦法を用いる。 ●金子正輝 新潟県出身のプロ雀士。11歳で麻雀を覚え、昭和56年最高位戦Bリーグでプロデビュー。第9期、11期、12期で最高位。平成元年101競技連盟理事代表、第21期(平成2年)・22期・23期とも名人位に就く。日本麻雀最高位戦で7期連続最高位決定戦進出の新記録を持つ。最高位戦に所属する競技プロ。 「牌流定石」という、自摸牌には流れがあり、同種牌を続けて自摸るという流れ把握し、自摸の流れに沿った手作りをすることを戦術化した理論を提唱した。 ●伊藤優孝 秋田県出身のプロ雀士。16歳で麻雀を覚える。第3回最強位、第6期雀魔王。 雀鬼会の出。 「死神」の異名を持ち、「死神の優」とも言われる。爆発力が必要な短期戦に強い。粘り強く相手をねじ伏せる麻雀を打つ。 ●飯田正人 富山県出身のプロ雀士。10歳で麻雀を覚える。第5期八翔位、第14・15・16・17期現最高位、第17期王位などのタイトルを持つ。最高位戦前では人未踏の四連覇を果たす。 「大魔人」または「白鯨」と呼ばれ、大きな体型と迫力ある雀風で、最高位4連覇等の数々の実績を誇る。 ●荒正義 北海道出身のプロ雀士。第1期新人王、第5期王位、第3・5期グランプリ、第10期最強位、鳳凰位などタイトル多数。 日本プロ麻雀連盟所属。 合理的な手筋、判断力、相手に対する観察眼とどれをとっても一流。 ●土田浩翔 大阪府出身のプロ雀士。7歳で麻雀を覚える。鳳凰位他。 丁寧な打ち筋の雀士。「雀界の貴公子」と呼ばれる。 ●二階堂亜紀 1981年生まれ。日本プロ麻雀連盟に所属する競技プロ。 「卓上の舞姫」。姉の二階堂留美プロと美人姉妹雀士として活躍。 ●畑正憲 作家。 ●福地泡介 漫画家。麻雀漫画を描く人ではない。 ●福本伸行 神奈川県出身。 麻雀漫画家。代表作は「天」「アカギ」。 ●片山まさゆき 麻雀漫画家。代表作は「ぎゅわんぶらあ自己中心派」「スーパーヅガン」。 麻雀関連団体 ●日本プロ麻雀連盟 1981年設立。 灘麻太郎、小島武夫、安藤満、畑正憲、荒正義、土田浩翔など多くのプロ雀士が所属する団体。 ●日本プロ麻雀協会 土井泰昭が代表を勤める。 斉藤勝久、鎌田勝彦、手塚紗掬、長村大、土井泰昭 ●最高位戦プロ麻雀協会 1976年に創設された。 飯田正人、長村大、金子正輝、馬場裕一など多くのプロ雀士が所属する団体。 ●麻将連合MU 井出洋介、忍田幸夫、木村和幸など多くのプロ雀士が所属する団体。 ●101競技連盟 愛澤圭次、青野滋、伊藤 英一郎など多くのプロ雀士が所属する団体。 ●全日本アル・シーアル連盟 現在では一般には使われないアル・シーアルのルールで打つ麻雀の連盟。 ●雀鬼会 桜井章一が主催する団体。 ●全国麻雀業組合総連合会(全総連) 日本全国の麻雀クラブの組合の連合体。各都道府県内にいくつもの支部があって、ほとんどの雀荘がこれに加入している。活動の内容は、経営者間の情報交換がメイン。 麻雀のその他雑学 ●世界一高価な麻雀牌 西太后(せいたいごう、清朝末期の女帝)の使った牌。 東南西北にはサファイヤ、白にはダイヤモンド、發には翡翠(ひすい)、中にはルビーが埋め込まれていたと言う。満州事変以降は行方不明。 ●菊池寛の麻雀賛 『とにかく勝つ人は強い人である、多く勝つ人は結局上手な人、強い人と云はなければならないだらう。しかし、一局一局の勝負となると、強い人必ず勝つとは云へない。定牌を覚えたばかりの素人に負けるかも知れない。そこが麻雀の面白みであらう。 しかし、勝敗の数は別として、その一手一手について最善なる打牌を行う人は結局名手と云はなければならない、公算を基礎とし、最もプロパビリティの多い道を撰んで定牌に達し得る人は名手上手と云へよう、しかしさうした公算に九分まで、準據ししかも最後の一部に於て運気を洞算し、公算を無視し、大役を成就するところは麻雀道の玄妙が存在してゐるのかも知れない。 最善の技術には、努力次第で誰でも達し得る。それ以上の勝敗は、その人の性格、心術、覚悟、度胸に依ることが多いだろう。あらゆるゲーム、スポーツ、がさうであるが如く、麻雀、も技術より出で、究極するところは、人格全体の競技になると思ふ。そこに、麻雀道が単なるゲームに非る天地が開けると思ふ。』 菊池寛(作家・日本麻雀連盟初代総裁)の記述である。 大正時代の中期から麻雀をやり続け、かなり強かったそうであるが、自分が負けると、ムッとして黙り込んでしまい、「くちきかん」と陰口を言われたそうである。 ●二盃口なのに七対子じゃない 通常、二盃口は七対子の特殊形と見なされがちである。 しかし、二盃口なのに、七対子ではない和了形もある。 つまり同種牌4枚使いがかぶる場合である。 さらに極端にはこのように、ローカル役満一色四順も、二盃口であって七対子でない和了形である。 最大最小考 麻雀に関する、各種の最大値と最小値について考える。 ここに書くことは、知っていても何の役に立つものでもない。 半荘戦(東風戦)、25000点持ちの30000点返し、ドボンありを考える。また場棒は親が持っている点数分までしか積めないルールとする。 ●場 東場→南場→西場→北場→返り東→返り南→返り西→返り北→返り返り東→…。 これは無限に続きうる。従って最大値は存在しない。最小値は東1局でドボン確定。 よって、最大値は∞(無限大)、最小値は1。 ●本場 ドボンありの場合、場棒を何本まで出せるかで最大値が決まる。 場棒を溜めても、誰かが和了すると0本場に戻ってしまう。このため、流局前提で考えなければならない。 立直棒を出しても和了がなければ立直棒は溜まるだけで他家に渡らない。 東1局に親が場棒を250本積んで流れれば南家にいくのだが、南家は250本を越えて場棒を積むことができない(場棒がなくなってドボンになってしまう)ために、東2局251本場で南家ドボンで終わってしまう。これでは最大値にならない。東家が積んだ250本の場棒は、流局すると東家の元に戻るからである。 A・B・C・Dの4人を想定し、Aが起家、Bが次、Cが次の次、Dがラス親と仮定する。 東1局0本場、Aが立直後に、DがAから三倍満24000点の出和がりをする。これでA0点、D50000点になる。 東2局0本場、Bが立直後に、DがBから三倍満24000点の出和がりをする。これでB0点、D75000点になる。 東3局0本場、Cが立直後に、DがCから三倍満24000点の出和がりをする。これでC0点、D100000点になる。すべての点棒がDに集まることになる。 この後、全員聴牌を1000回繰り返して、1000本場になる。 最大値は1000本場、最小値は0本場。 ●供託立直棒 誰かが和了すると供託立直棒はなくなってしまう。また4人が立直すると四家立直で流局になってしまう。 さきほどの本場の時と同様にDが3倍満を3回和がって100000点をDが集める。この後、東4局0本場から90本場までDが毎回立直をすると、Dは場棒を90本積んで9000点、91回立直棒を出して91000点、併せて100000点ジャストとなる。従って、供託立直棒最大数は91本。 1000(n+1)+100n≦100000 n≦90 ∴n=90 しかしこれよりも多くなる方法がある。 東1局0本場、DがBから1000点の出和がりをする。これでD26000点、B24000点になる。 東2局0本場、DがCから1000点の出和がりをする。これでD27000点、C24000点になる。 東3局0本場、全員ノー聴で流局する。 東4局0本場から30本場まで、ABCDの4人うちの3人が順番に3人立直を繰り返し、全員聴牌で荒局する。すると、親のDは場棒を30本積み、残り点数は全員1000点となる。 31本場で、ABCの3人が立直をすると、親のDは場棒を100点出して残り点数900点、ABCの3人は残り0点となる。ここで、96本の供託立直棒が積まれることになる。 従って、供託立直棒最大値は96本、最小値は0本。 ●符数 理論上は幺九牌を4つ暗槓すれば、32×4=128符になる。門前でロンする。これに役牌雀頭2符、単騎待ち2符で、 副底(30)+暗槓4つ(128)+雀頭(2)+単騎(2)=162符、切り上げて170符になる。理論上、170符が最大値。しかし、これは四槓子+四暗刻確定。役満である。 では満貫未満での符数の最大値はいくつになるか。 三槓子なら2飜である。しかし、暗槓を3つしてしまうと三暗刻と複合し、満貫になってしまう。 幺九牌の暗槓2つと幺九牌の暗刻1つなら、三暗刻の役しか付かない。残りの1面子を刻子にすると対々和が複合してしまうのでダメ。残りの1面子を順子(0符)とし、雀頭を役牌、待ちを嵌張、門前でロンしたとすると、 副底(30)+暗槓(32)+暗槓(32)+暗刻(8)+雀頭(2)+嵌張(2)=106符、切り上げて110符になる。 110符の場合、3飜で満貫となってしまうので2飜でなければならない。役牌や全帯幺やドラが複合しなければ、三暗刻のみで110符2飜7100点となる。 また、幺九牌の暗槓2つと幺九牌の明槓1つなら、三槓子の役しか付かない。残りの1面子を刻子にすると対々和が複合してしまうのでダメ。残りの1面子を順子(0符)とし、雀頭を役牌、待ちを嵌張、門前ではないが自摸和したとすると、 副底(20)+暗槓(32)+暗槓(32)+明槓(16)+雀頭(2)+嵌張(2)+自摸(2)=106符、切り上げて110符になる。 110符の場合、3飜で満貫となってしまうので2飜でなければならない。役牌や全帯幺やドラが複合しなければ、三槓子のみで110符2飜7100点となる。 従って、符数の最大値は110符、最小値は20符。 ●ドラ 持ち牌の数が多ければドラはそれだけ多く乗ることになる。最も持ち牌が多い状態とは、四槓子である。 またドラ指示牌の数が多くても、当然多く乗ることになる。 1人が4回槓をすれば、裏ドラを含めて、ドラ表示牌は10枚になる。ドラが四槓子の槓子構成の牌に乗るとする。 ドラ表示牌が、1・1・1・1・3・3・3・3・5・5とすると、ドラ40である。ドラ最大数はドラ40個。 しかし、これは四槓子+四暗刻単騎である。四槓子+四暗刻単騎は、文句なく役満である。「役満にドラは乗らない」が世間の一般常識なので、ドラ最大数40は幻とする。 では役満以外ではドラ最大数はいくつになるか? 他家1人が4つ槓をして、四槓子聴牌になっているとする。ドラ表示牌が9・9・9・9・2・2・2・4・4・4とすると、16+12+12=40、ドラ40となる。(このドラ最大数は稲葉さんから頂きました) 因みに、立直+清一色+ドラ40で、47飜、トリプル役満となる。 ●収入点 場数、立直棒が最大となって、最高の組合せの何倍かの役満を親で和がるのが最高の収入点となろう。 まず、場数と立直棒から検証する。本場の最大数は1000本場であり、300000点に相当する。供託立直棒の最大数は96本なので、96000点になる。従って、1000本場の場合の方が収入点が多くなる。 役については役満の複合とする。また、当然親とする。役満の複合は、天和+四暗刻単騎+大四喜+字一色とする。四槓子は天和とは複合しない。四暗刻単騎と大四喜はダブル役満とする場合が多いので、そう考えると、なんと、6倍役満になる。これが親なので、和了点は288000点になる。これに1000本場の300000点を足すと、588000点になる。これが収入点の最大値となる。 収入点最大値は588000点、最小値は0点。 ●副露数 4人が4つずつ副露すれば、最大副露数は16になる。 副露数最大値は16、最小値は0。 ●自摸牌数 通常、副露がなければ、東家と南家が18牌、西家と北家が17牌の自摸となる。 全部の牌 王牌 配牌 ((34×4)−14−(13×4))÷4 =70÷4 =17.5 の計算に因る。 では、どうすれば自摸牌数が増えるかというと、副露に因る。東家が最初の自摸者なので、東家を対象とする。東家の配牌は14枚であり自摸牌とならないという考えに立つならば、代替として南家を考える。 チーでは自摸者が変わらず順送りになるだけなので、ポンを考える。東家が捨てた牌を他家3人が4回ずつポンする。すると海底牌は南家になり、東家は24牌自摸ることになる。因みに、南家は12牌、西家は15牌、北家は19牌になる。 もし槓による嶺上牌も自摸牌と考えてよいのであれば、これに東家の4回の暗槓を加えて考えることができる(四槓子聴牌)。すると東家は27牌自摸ることになる。因みに、南家は11牌、西家は14牌、北家は18牌になる。 一方、自摸数の最小値は、配牌時に誰かがチョンボをすれば0牌となる。 自摸牌数の最大値は27牌、最小値は0牌。 ●捨て牌数 通常、副露がなければ、東家と南家が18牌、西家と北家が17牌の捨て牌数となる。これは自摸牌数と同じ数である。 捨て牌数の数は、嶺上牌を含めた自摸牌数の数と同じになる。 捨て牌数の最大値は27牌、最小値は0牌。 ●1飜最高点 東場の東家で門前で栄和する。立直のみ。 栄和: 副底(30)+暗槓(32)+暗槓(32)+明刻(4)+連風牌雀頭(4)=102符、切り上げて110符になる。 親なので、110符1飜で5300点。(因みに子ならば、110符1飜3600点) 1飜最高点は5300点。 ●2飜最高点 親の110符2飜で10600点。(因みに子ならば、110符2飜7100点) ●役満以外の最高飜数 東場の東家における下記の牌姿だと、対々和+三暗刻+三槓子+混老頭+混一色+小三元+發+中+ダブ東 で、17飜になる。 栄和: (東場の東家) これに、ダブルリーチ+河底撈魚の3飜を合わせると、20飜になる。 さらに、ドラ・槓ドラ・裏ドラ・槓裏は全部で8枚あり、ドラ表示牌が北4枚・八索4枚ならば、ドラが東と九索になるので、ドラ32になる。 ダブルリーチ+河底撈魚+対々和+三暗刻+三槓子+混老頭+混一色+小三元+發+中+ダブ東+ドラ32+バンバンで、54飜。トリプル数え役満となる。 ●役満複合 自摸和: 四暗刻単騎待ち(ルールによってはダブル)+四槓子(ルールによってはダブル)+字一色+大四喜(ルールによってはダブル)、よって4倍役満(ルールによっては7倍役満)となる。 さらに八連荘でオープンリーチへの振込み(リーチかけていない者が)の役満もありならば、6倍役満(ルールによっては9倍役満)。暗槓があるので天和とは複合しない。 こんなお笑いネタ 麻雀を打っている時の「こんなお笑いネタ」募集します。 ●初めての雀荘 (ミーコさん投稿) 捨て牌回文 ●捨て牌回文 捨て牌に左右対称形ができた場合、例えば、東・一萬・三索・一萬・東、と捨てたような場合、頭からでもお尻からでも同じ捨て牌相になる。捨て牌がこのような形になることを捨て牌回文と言う。 捨て牌回文ができたからと言って、特に祝儀がもらえるというルールは、私が調べた限りでは見つからなかった。ただ、「とまと」とか「しんぶんし」などと言って楽しむだけのものである。7枚以上の回文は、そうそう滅多にできるものではない。結果的には多量の対子が必要となるからである。
●ビンゴ 捨て牌は6枚ずつ3段(または4段)に並べるのがマナーとされる。6枚ずつ3段に捨てて行き、縦・横・斜めに同じ牌が並んだ時(つまり暗刻落としが前提条件)、ビンゴという。ビンゴでチップやビンゴ賞がもらえるルールもある。 イカサマ イカサマ(如何様)のことを単にサマとも言う。 本人が意図せずにやってしまう多牌や誤ロンなどと異なり、イカサマは確実なる悪意を持った不正な行為である。 ・見せ牌 わざと自分の牌の一部を他家に見せること。 ・スカートめくり 違う山から自摸ること ・置きザイ サイコロを振って転がすのではなく、自分が出したい目のまま置くこと。または滑らせること。 ・山崩し サイコロの目が思い通りに出ずに他家に役満が流れてしまうような場合にはわざと山を崩して都合のいいように並べ替えてしまうこと。 ・先自摸(さきづも) 上家の打牌より前に自摸して、自分の不要牌ならば鳴くなどの対応をすること。 ・ビジネス 先自摸をして手持ち牌を入れ替えてしまう行為。鳴きが入った時には入れ替えた不要牌をあたかも自摸牌であったかのように、上家に渡す。 ・振聴攻め(ふりてんぜめ) 初心者が和がった時に、その河に和了牌を置き、振聴したとして、チョンボにしてしまうこと。 ・偽暗槓 手持ち牌のうちの同じ牌4枚で暗槓するのがルールであるが、暗槓は両側の2枚を裏に伏せて副露するため、この裏になった2枚のうち1枚もしくは2枚を他の牌にして、本来暗槓できないのに暗槓してしまうこと。 ・立直後待ち換え 3面子ができており、それと別に同種牌4枚があって槓できる状態(未槓子)で槓をせずに立直をかける。ノー聴立直である。場の進行、見えてくる牌に応じて頃合いを見計らい、単騎待ちに最適な牌を自摸したら、暗槓をする。自摸した牌の単騎待ちとなる。嶺上牌がこぼれて見えた時などには最適なイカサマである。 ・三味線 「安いよ」と言って高い手を和がろうとしたり、逆に「高いぞ」と言ってベタオリさせたりするウソ。「親は索子が高いな」と言うのも三味線である。 本当のことであっても、自家・他家に限らず、役や待ちを類推させるような発言をすることは、三味線にあたりマナー違反である。 ・手三味(てじゃみ) 不要な動作で他人を騙す行為。立直を掛けた後に萬子を引く度に、いかにもツモ和了ったかもしれないような仕種を繰り返し、その実、索子待ちだったり、字牌が出る度に鳴こうか鳴くまいか考える振りをしながら、実はタンピンで聴牌してるような場合。手で三味線をしているのでこう呼ばれる。 ・腰(こし) 「腰を使う」とは、副露可能牌に反応してしまうことを指すが、手三味と同様に、他家を騙すために鳴けない牌を鳴ける牌であるかのごとく考えるような振りをすることも、「腰を使う」と言う。 ・ガン牌 牌の裏の模様から牌を読むこと。竹の牌の場合、模様は似て非なるものなので、それを覚えることにより、山の牌・他家の手持ち牌・王牌が判る。 ・ガンづけ 牌に傷や印をつけること。 ・覗き 他家の手牌を覗き見ること。 ・通し 通しとは、イカサマをする当事者同士にしか通じないサインのことである。同じ卓を囲んでいる2人または3人であることもあれば、卓外の観戦者がイカサマのコンビのこともある。 手や顔の表情によるサイン、一見無意味に思われる発言にキーワードが含まれている。言葉や指や仕草などで他家の和了牌、自分の待ち牌、欲しい牌などを表現する。また、「今日はいい天気だなあ」と言ったら便天をやるというようなものも通しに含まれる。 立直をかけた時の捨て牌の位置、発声、立直棒を出すタイミング、立直棒を出す位置などによって待ちをコンビに教える。 ・ローズ 通しのサインのこと。 ・くちローズ 一見無意味に思われる発言にキーワードが含まれている。1〜9、萬子・筒子・索子によって、組み合わせた暗号表により、言葉や指や仕草などで自分の待ち牌、欲しい牌などを表現する。 ・手ローズ 指の動きや仕草によるサインのこと。 ・壁役 通しを行うコンビの観戦者のこと。 ・鏡 壁役と同義である。鏡に映したかのように、対戦相手の牌が見えることから。 ・コンビ コンビ打ち。組んで打つこと。 ・列 イカサマを組んでいる仲間のこと。 ・ベタ積み 自分が東家か西家の時には、中張牌を上山に幺九牌を下山に積み込み、南家か北家の時にはこの逆をやる積み込み方。 ・上積み/下積み ベタ積みと同義。 ・固め積み 同じ牌、または数字が近い牌を一箇所にまとめて詰め込むこと。 ・団子積み 固め積みと同義。 ・六間積み 自分の配牌に好牌を積み込むこと。 ・元禄積み(千鳥積み) 上山または下山に、1枚ごとに特定の牌を並べること。 ・黒鍵積み ピアノの鍵盤の黒鍵のように1枚ごとに特定の牌を並べること。 ・三元縛り 配牌で三元牌が他家3人(または2人)に持ち持ちになるように積み込むこと。 ・ドラ爆 配牌で自分にドラ、または、裏ドラが入るように積み込むこと。 ・裏ドラ爆 配牌で自分に裏ドラが入るように積み込むこと。 ・三元爆弾 大三元の積み込みのこと。 ・大三元積み 三元爆弾と同義。 ・多牌 意図的に多牌すること。 ・山拾い 山から牌を拾うこと。 ・河拾い 河に捨てられた牌を拾うこと。 ・三枚自摸(三牌自摸) 自摸時に、1枚を自摸るように見せかけて、3枚を自摸すること。 ・返し(返し自摸) 牌を山に戻すこと。 ・山ずらし 上山を1牌分ずらすこと。副露により元禄詰めがずれた時の修正に使う。 ・キャタピラー 両手を使い、牌山の上をずらして自摸ること。 ・ぶっこ抜き 自分の手持ち牌の不要牌2枚を自分の山の右側に付け、山の左側から2枚を持ってくる。予め自分の山の左側には有効牌を積んでおく。繰り返すこともできる。山の長さが変わらないところがポイントである。 ・すり替え 自摸する時に本来の自摸牌とは別の牌を自摸ること。元禄積みがずれた時に行う。 ・抜き 山や捨て牌から不正に牌を取ること。 ・吊り 牌を隠し持つこと。通常は偶数枚数の牌を隠し持つ。2枚を持つことが多いが、4枚を持つ場合もある。この吊りをする牌は、通常尖張牌(数牌の3と7)がいいとされる。「2枚隠し持っていれば和がるの早いよなあ」と思うであろう。事実その通りであるが、このようなイカサマには実に高度な雀力が必要なのである。ちょと、あなたの実力テストを。 手持ち牌がこうであったとする。非自摸状態。このままではノー聴である。 手の中に、とを持っている。待ちは何か? 当然、手の中に持っている2牌はあなたのイカサマの技量で簡単にすり替えられるものとする。 瞬時に待ちが判るという人は、相当に吊りの技術を持っているイカサマ師であろう。普通の人は瞬時には判らない。また、振聴のことも考慮しなければ、チョンボになってしまう。ここまで手を進めるに当たって、牌効率と待ちの広さと役を考え、振聴しないように持って来るのは、かなり大変なことなのである。イカサマとは悪いことをしようと思えば、吊りやすり替えの技量さえあれば誰でもできてしまうというような簡単なものではなく、イカサマをするには実に高度な雀力が必要なのである。待ち牌の答えは、一萬・二萬・三萬・四萬・五萬・六萬・七萬・二筒・三筒・四筒・五筒・七筒・八筒の13面待ちである。2枚吊りでさえ、こうである。4枚吊りがいかに難しいことなのか、ご理解頂けると思う。 ・握り(握り込み) 吊りと似ているが、手の中に牌を持つこと。洗牌時に2牌または4牌を握り込む。 また、自摸時に、自分の手の不要牌1枚を山において、2枚の牌を自摸すること。コンビ打ちの時に相手に必要な牌を置くなどにも使われる。 ・ドラ吊り 配牌時、ドラ表示牌をめくる時に、手牌の1牌とドラ表示牌をすり替えること。 手牌に、南西西とあれば、南をドラ表示牌にすることにより、ドラ2になる。 ・上山すり替え 自摸山が他家の山の時に、自摸時に手が自分の山を通過する時に、自摸牌と上山の牌をすり替えること。 ・送り込み コンビ打ちの相手に、相手が必要としている牌を渡すように自摸時に握りをすること。 ・エレベータ (1)わざと多牌して自分の腿のところに牌を置くこと。 (2)自摸の時に山の上の牌を自摸らずにすり替えて下の牌を自摸ること。 コンビ打ちの場合には、卓下でコンビ間の牌交換もある。 ・燕返し 自分の山の上山と、手牌をそっくり交換すること。 ・便天[べんてん] 便天とは、「便所に行って帰ってきたら天和」の略である。サイコロ2度振り用であり、観戦者のコンビが必要である。親の時に便所に行く。コンビの観戦者が親の山を代理で積む。この時右側7幢(トン)に天和を積み込む。サイコロは2度振りし、5を出して2を出す。普通に配牌を取り、取ったまま開けずに上下2段に7幢(トン)を持つ。そして親が便所から帰ってくる。親は、目の前に自分の配牌7幢(トン)と王牌7幢(トン)があるのだが、おもむろに王牌7幢(トン)の方を手牌としてとって開ける。すると天和が完成している。 積み込み 実際の積み込みを以下に紹介する。 ・爆弾積み 爆弾積みのメリットは、鳴かれることは関係なく、配牌で自分に必要な牌を得ることであるが、サイコロの目によっては他家に主要な積み込み牌が渡ってしまうこともある。 別に、自目(じめ)である5や9を出さなくても、爆弾積みはできる。 サイコロの目で最も出やすいのは7であり、次いで6と8、その次が5と9である。 図において、上が上山、下が下山を表す。自分が積む時には、上山が自分の手前側になる。 東家でサイコロが5の時
東家でサイコロが9の時
上の例と合わせ、サイコロが5・6・9・10の時に都合のいい牌を積み込む。 ・ドラ爆
このように三萬・四萬・五萬を積み込むとする。サイコロで5が出れば、三萬がドラになり、四萬4枚が手牌に入る。五萬4枚は対面に行く。四萬を暗槓して門前で立直をかければ、表ドラ・裏ドラ・槓ドラ・槓裏すべてが四萬になるので、ドラ1 6になる。立直+ドラ16で数え役満である。 サイコロで9が出ると、今度は四萬がドラになり、五萬4枚が手牌に入る。五萬を暗槓すれば、同様である。 これは東家の例であるが、南家なら2か6か10、西家なら3か7か11、北家なら4か8か12をターゲットに同様に積むことができる。 サイコロの目が違っても、他家にバレづらい。 ・三元爆弾
サイコロで6が出れば、發対子+中対子が入った上に、チョンチョンで白が2枚入る。つまり三元牌すべてが対子になる。發は南家、白は対面、中は北家に流れる。 成功すれば親の役満で48000点になる。 サイコロで10が出ると、白対子+發暗刻+中暗刻が対面に流れてしまう。 ・三元縛り (=三元金縛り)
サイコロで5が出ても、6が出ても、南家に發と中の対子、西家に白と中の対子、北家に白と發の対子が行く。配牌時に他家3人は三元牌のうち2種類を対子で持つことになる。配牌で三元牌の2つが対子であれば、小三元かあわよくば大三元を想定した役作りをするであろう。他に対子があれば七対子に走って和了する可能性もあるが、どちらにしても三家とも三元牌は捨てない。三人が三人とも対死[といすう](持ち持ち)の状態になる。これにより三人を事実上殺し、自分が和了すると言う積み込みである。通常の積み込みは、自分にいい手を入れるようにするものであるが、この三元縛りは、他家にいい手(というべきか悪い手というべきか)を渡すことにより、行動を抑えようとするものである。 イカサマとしてはバレづらいが、三元牌を必ず4枚ずつ計12枚しっかり積まないと、かえって危ない。 自分に入るように積み込むドラ爆や三元爆弾は、多少欠けている牌があっても、自分でそれを補えばよいのだが、三元縛りは、12枚をしっかり積まなければいけないので、難易度が高く完璧性が求められる。 芸術的な積み込みなのであるが、あまり実用的とは思えない。山積の時に自分の手元に三元牌を多く見たら、三元爆弾を積む方が効果は大きい。 ・元禄積み(千鳥積み) 一家が4枚づつ取る配牌ではなく、自摸牌は、サイコロの目が何になろうとも、一意に決まっている。自分の山が配牌の山になってしまっては元禄積みの意味はないが、自摸の山になれば、自分の欲しい牌を自分に入れることができる。 「サイコロの目によって自摸する牌は変わる筈」と思っている人は多いようであるが、一家が17幢(トン)ずつ積めば、実は数字のマジックのように、必ず4人の自摸牌は決まるのである。下図にそれを表す。 もちろん、鳴きが入ればずれてしまう。また、自分の山の一部が配牌または王牌になることもあり、その場合には元禄積みの効力は薄れる。 東家と北家の場合8枚積むことができ、南家と西家の場合9枚積むことができる。 元禄積みには、役積みとしては、9枚部分役の大三元・三色同順・一気通貫・三色同刻・三暗刻などが使われる。また、色積みとして、一色の牌のみを積むこともできる。さらには露骨な元禄積みがばれないように、3〜7の真ん中寄りの牌だけを積むこともある。 東家の場合
南家の場合
西家の場合
北家の場合
元禄系の積み込みには、上下積み(ベタ積み)がある。 |
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